島津義弘は、天文4年(1535年)、薩摩国守護であった島津貴久の次男として薩摩伊作城(亀丸城)に生まれた。母は入来院重聡の娘。
幼名を忠平と称したが、天文15年(1546年)元服後は又四郎と称する。このとき後の義弘11歳。(※天正13年(1585年))頃に義珍(よしたか)と称し、義弘と名乗るのは天正15年(1587年)からである)。
後に「島津四兄弟」と後世まで賞賛されることになる兄・義久、弟・歳久、末弟・家久も義弘と同じ亀丸城で生まれ、義弘は兄弟とともに、仏教に深く帰依していた祖父・忠良(日新公)、父・貴久の薫陶、影響を多大に受けながら大きく成長していくことになる。
義弘は幼い頃から勇敢、活発な少年だったらく、将来を嘱望されて育っていった。(対して嫡男・義久は大人しく、他の3兄弟が勇敢にして優秀だったので「愚兄賢弟の見本」と陰口されたという逸話がある)。祖父・忠良は「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」とそれぞれの孫を高く評価している。
亀丸城井戸跡。
亀丸城は島津家中興の祖であり、
義弘の祖父である島津忠良(日新公)の誕生地でもある。
亀丸城から望む周辺の山々。険しい山城だったことが分かる。
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