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島津義弘 青年期
義弘の父・貴久が拠城とした一宇治城跡。義弘も青年期をここで過ごした。
義弘の父・貴久が拠城とした一宇治城跡。
義弘ら四兄弟もここで青年期を過ごした。


日本に初上陸したザビエルと義弘の父・島津貴久会見の碑。
天文18年(1549年)日本に初上陸したザビエルと義弘の父・島津貴久会見の碑。
(一宇治城にて貴久はフランシスコ・ザビエルと接見。
日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所としても著名である)


ザビエル碑説明文。
ザビエル碑説明文。


島津義弘の初陣であった岩剣城の戦い。奥の山が岩剣城跡。
島津義弘の初陣であった岩剣城の戦い。奥の山が岩剣城跡。
日本で初めて鉄砲が使用された合戦でもある。


義弘の初陣にあたって父・貴久が戦勝を祈願した岩剣神社。
義弘の初陣にあたって父・貴久が戦勝を祈願した岩剣神社。
義弘はその後もしばしば参詣し、神舞を奉納したという。
(後ろに見える山が岩剣城)


岩剣城、岩剣神社説明文。
岩剣城、岩剣神社説明文。

岩剣合戦の際、義弘らが陣を構えた「白銀坂」付近。
岩剣合戦の際、義弘らが陣を構えた「白銀坂」付近。




天文5年(1536年)、島津家中の統一を目指していた義弘の祖父・島津忠良(日新公)、父・貴久親子は、先祖代々からの居城であり、義弘の誕生した城でもある伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)から、薩摩国中央部にある一宇治城に拠城を移し、鹿児島(現鹿児島市)の制圧を目指すことにした。天文14年(1545年)、他の島津氏の有力分家の支持を得た貴久は、この城で悲願であった島津家中の統一を果たした。その間、義弘も一宇治城で順調に育っていった。天文15年(1546年)、島津義弘元服。義弘このとき11歳。

天文19年(1550年)、名実共に島津氏宗家当主となった貴久は拠点を鹿児島の内城に移すこととなる。


天文23年(1554年)、島津貴久は大隅西部の祁答院(けとういん)氏、入来院氏、蒲生氏、菱刈氏などの連合軍と岩剣(いわつるぎ)城にて、決戦を挑む。貴久は息子の義久、義弘、歳久も従軍させ、この「岩剣城の合戦」が義弘の記念すべき初陣となった。


貴久は軍勢をいくつかに分け、岩剣城を包囲するように布陣。義弘は岩剣城の東南に位置する白銀坂に陣を張った。叔父・忠将が岩剣の東に位置する帖佐城を攻めた際、義弘は帖佐城の軍勢のおびき出しに成功するとこれを一気にたたき、さらには敵方の船10艘を捕えるなど、初陣とは思えない戦果を挙げている。


戦いも大詰めとなり、島津方の総攻撃となった際も、敵方の援軍に駆けつけた蒲生範清が率いる軍勢と激突し、義弘は再び奮闘。恐れをなした城兵は、夜になると城を捨て退却を開始した。このときの様子を晩年に記した「惟新公自紀」のなかで義弘は「陣中の軍兵を率い、足を止めず駆け入りて方々に追い散らし、数千の敵を討ち滅ぼし、大利を得」たと述懐している。猛将と謳われた義弘の初陣に相応しい島津方の大勝利となった。


この戦いの功績により、義弘は岩剣城の城主に任じられ、その後も帖佐城、蒲生城攻略戦などで獅子奮迅の活躍を見せた。蒲生攻めでは、支城の松坂城攻略で先陣を切り、敵方との一騎打ちで見事に敵を討ち取り首級をあげた。その際、義弘は、1メートル余りの大剣を抜き城門を突破。敵方の武者と戦ったという。


天文23年(1554年)以来長期に及んだ大隅領をめぐる戦いは、祁答院氏が仲裁に入り蒲生氏の斜免を乞うたことで決着。蒲生領の大半が島津統治を受け入れ、各城には島津家の家臣が地頭として入場した。義弘らの活躍により弘治3年(1557年)、島津家の大隅制圧が完了することになった。


その後の永禄3年(1560年)、義弘は蒲生氏の降伏によって得た日向国飫肥の在番となり、永禄7年(1564年)には、飯野城守り番として着任している。



岩剣城に在番することになった義弘が、生活の場として岩剣城の麓に築いた平松城跡。現在は小学校になっている。
岩剣城に在番することになった義弘が、
生活の場として岩剣城の麓に築いた平松城跡。現在は小学校になっている。

当時を偲ばせる平松城跡の石垣。
当時を偲ばせる平松城跡の石垣。

平松城跡から望む岩剣城跡
平松城跡から望む岩剣城跡(右奥)。

平松城の歴史、説明文。
平松城の歴史、説明文。



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