関ヶ原合戦を語る際、必ずと言っていいほど出てくる有名なエピソード「島津の退き口」の人物として有名な島津義弘。その島津義弘という人物はどんな生涯を送ったのか。このページでは略歴・プロフィールを紹介し、次ページ以降、島津義弘の足跡をたどっていきます。
【島津 義弘(しまづ よしひろ)】
天文4年(1535年)生誕−元和5年(1619年)没。薩摩島津氏の第17代目当主(※)。16代当主島津義久の弟であり、義久の補佐役を務め、戦国期における薩摩島津家の版図拡大に多大な貢献を果たした。
「九州の桶狭間」と呼ばれる「木崎原の戦い」において、日向国大名・伊東義祐率いる3000の兵に対し、300の寡兵でこれを奇襲。伊東軍を打ち破り、伊東家を滅亡へと決定づけると、その後も九州制覇にあたり数々の合戦で名を響かせた。朝鮮の役(文禄・慶長の役)では、秀吉の死によって日本軍が朝鮮半島より総退却となった際、朝鮮半島南端の泗川城において殿軍(しんがり)を勤め、追撃軍を寡兵を持って大いに打ち破り困難な退却戦を見事成功させ、さらに続く露梁海戦では、朝鮮水軍の名将・李舜臣を討ち取るなどし、その勇猛ぶりは「鬼石曼子(グイシーマンズ:鬼島津)」と明軍から恐れられた。
武人であると同時に茶の湯・易学・漢学などを嗜んだ文化人でもあった義弘は、慶長の役から帰還する際に朝鮮より陶工職人四十余人を連れ帰って磁器の制作にあたらせ、この地の陶磁器(薩摩焼)文化の発展にも大きな影響を与えた。
そして、義弘の名を後世まで残すこととなった関ヶ原の合戦では、義弘は西軍に属し敗戦となったが、退却戦においてまたもや寡兵で東軍側に突撃を敢行。徳川家康の本陣近くを通過し、敵中突破を果たし、無事薩摩まで退却することに成功した。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ、その勇猛さは敵である東軍からも賞賛されたという。
仏門に深く帰依し、慈悲深く、人徳の高かったと言われる義弘は家臣からの信頼も厚く、1619年当時としては驚異的な長寿である85歳で薨去すると、義弘の後を追い13名もの殉死者を出した。法名は「妙円寺殿松齢自貞庵主」。
(※:義弘が正式な17代当主であったかどうかは異説があるが、幕末に編纂された「島津氏正統系図」では17代当主と明記されている)
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