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島津義弘 九州制覇への道のり

永禄七年(1564年)から義弘が城主を務めた飯野城跡。
永禄七年(1564年)から島津義弘が城主を務めた飯野城跡。
木崎原合戦へも飯野城から出陣した。


激戦を極めた木崎原古戦場跡
激戦を極めた木崎原古戦場跡。

木崎原古戦場跡の碑
木崎原古戦場跡の碑。
この戦いの後、島津家は勢力を九州中に伸ばし、
伊藤家は没落の道を辿ったことから「島津・伊藤の関ヶ原合戦」とも呼ばれる。

義弘は巧妙な戦術で自軍の10倍の敵を破った(伊藤軍三千対島津軍三百)。
「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦い。(クリックすると拡大されます)

義弘が敵・味方双方の戦死者の霊を弔うため建てた「六地蔵塔」
両軍多数の死者を出した木崎原合戦後、
義弘は敵・味方双方の戦死者の霊を弔うため「六地蔵塔」を建て供養した。
島津氏は大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建て供養している。

伊東新次郎との一騎打ちで勝利を得た島津義弘が、腰をかけ休息したという「腰掛け岩」
木崎原合戦で、伊東新次郎との一騎打ちで勝利を得た島津義弘が
腰をかけ休息したという「腰掛け岩」。




永禄9年(1566年)兄・義久が島津家16代当主となり家督を継ぐと、義弘は兄の良き補佐役となって島津家の勢力拡大に多大なる貢献を果たすこととなる。

元亀2年(1571年)、前当主であった父・貴久が没すると、大隅の肝付氏が島津領に侵攻。これを好機と見た日向の伊東義祐は、真幸院(現・宮崎県えびの市、小林市、高原町、野尻町付近)の完全支配を目指し、義弘が治める飯野地区への大攻勢を翌年から開始した。

伊東義祐の弟・伊東祐安を大将とした約3000人という大軍を擁する伊東軍を、島津家の大将である義弘の計略と戦術により、僅か約300人という寡兵で打ち破ったことから、後に「九州の桶狭間」とも呼ばれる「木崎原合戦」である。

義弘は地の利を生かした数々の計略と、地侍(土豪)を巧みに使いこなした、後に島津家独自の得意戦法となる「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と称する伏兵を用いた包囲殲滅戦術で伊東勢を撃破する。

この戦いにおいて、伊東方は大将の伊東祐安を討ち取られ、他にも主要な武将をほとんど失うという惨敗を喫し、また島津勢も勝利をおさめたとはいえ、参加した将兵の大半を失うという壮絶な戦いであった。

木崎原合戦での勝利は、単なる局地戦での勝利に留まらず、木崎原合戦以後、伊東氏の勢力は急速に衰え、日向国南部にも島津氏の力が急速に浸透する契機となった。島津義弘、時に37歳。

※「釣り野伏せ」とは、野戦において軍を3隊に分け、そのうち2隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法で、まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退して釣る。そして追撃してきた敵を、左右両側から伏兵に襲わせるという戦術。島津氏は、義弘が木崎原合戦で使用した「釣り野伏せ」、及びそれを応用した包囲戦法によって耳川の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦いなどの島津氏九州制覇における重要な合戦に勝利し、一時的にせよ九州をほぼ統一することに成功することになる)

天正5年(1577年)に伊東義祐を日向から追放すると、天正6年(1578年)、兄・義久を総大将とする「耳川の戦い」にも参加して、豊後から遠征してきた大友氏(大友宗麟)を破る武功を挙げている。義弘42歳。

天正13年(1585年)には肥後国の守護代として八代に入り、阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り、武功を挙げることも多かった。天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食する。義弘ら島津四兄弟の活躍により、筑前・豊前を除く九州全域を制圧した島津家は九州統一を目前にしていた。

天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受け九州征伐に乗り出した豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で激突(根白坂の戦い)。このとき、義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを見せたというが、島津軍は兵力で豊臣軍に対して圧倒的に及ばず劣勢であり、結局大敗。その後、兄・義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、兄・義久の懸命な説得により、ようやく降伏した。この戦後処理において、義弘は豊臣秀吉から大隅一国を所領安堵され、義久と同格の大名に処された。義弘52歳。

なお、このときに兄から家督を譲られて島津氏の第17代当主になったとされている。(秀吉やその側近が、島津氏の勢力を分裂させる目的で、16代当主・義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある)。

義弘の夫人・広瀬夫人を置いた支城・加久藤城大手門跡。
義弘の夫人・広瀬夫人を置いた支城・加久藤城大手門跡。

加久藤城跡
伊藤義祐は、川上忠智以下数十名が留守を預かる加久藤城を攻撃。
この行動が木崎原合戦へと繋がっていった。


島津義弘の愛馬「膝付栗毛(ひざつきくりげ)」の墓。
島津義弘の愛馬「膝付栗毛(ひざつきくりげ)」の墓(鹿児島県姶良町の亀泉院跡)
木崎原の戦いで一騎打ちをした際、高所にいた義弘が戦いやすいように
前膝を曲げ、そのお陰で義弘は伊東軍の将・伊東祐信を見事討ち取れたという。
義弘はこの牝馬を「膝つき栗毛」と命名し、その後もこの馬とともに戦い、
非常に大切にした。膝付栗毛は人間の年齢にして83歳まで生きたという。


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