| 
 
 
  | 
  永禄七年(1564年)から島津義弘が城主を務めた飯野城跡。
 木崎原合戦へも飯野城から出陣した。
 
 
  激戦を極めた木崎原古戦場跡。
 
 
  木崎原古戦場跡の碑。
 この戦いの後、島津家は勢力を九州中に伸ばし、
 伊藤家は没落の道を辿ったことから「島津・伊藤の関ヶ原合戦」とも呼ばれる。
 
 義弘は巧妙な戦術で自軍の10倍の敵を破った(伊藤軍三千対島津軍三百)。
 「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦い。(クリックすると拡大されます)
 
 
  両軍多数の死者を出した木崎原合戦後、
 義弘は敵・味方双方の戦死者の霊を弔うため「六地蔵塔」を建て供養した。
 島津氏は大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建て供養している。
 
 
  木崎原合戦で、伊東新次郎との一騎打ちで勝利を得た島津義弘が
 腰をかけ休息したという「腰掛け岩」。
 
 
 |