元和5年(1619年)、大隈国加治木において、85歳という当時としては驚異的な長寿を全うし、島津義弘はその生涯を閉じた。当時、固く禁じられていたにも関わらず、義弘を心から慕う家臣13名が後を追って殉死したという。
(老衰も進んだ晩年、老いのために食事を取らせることもままならぬほどになったが、食膳を目の前に据えて、側近の者たちが戦場での鬨の声をあげるとその瞬間に我に返ったように、独力で食事をしたという逸話を残している)
鹿児島の三大行事の一つに義弘没後から脈々と続く妙円寺詣りという伝統行事がある。義弘没後に、鹿児島の城下侍達が義弘の遺徳を慕い、関が原の苦闘をしのび菩提寺である妙円寺(現在は徳重神社)に鎧姿で歩いて参拝し志気を鼓舞し心身を鍛錬するもの。徳川の目を気にしなくて良くなった明治維新後に公に行われるようになり、精神と身体を鍛える「郷中(ごじゅう)教育」の一環として現在まで受け継がれている。
また、島津義弘を祀る神社として精矛(くわしほこ)神社がある。明治2年、終焉の地に神社を造営し、神号の精矛厳健雄命(クワシホコイズタケヲノミコト)から精矛神社とされた。その後、大正7年(1918年)、義弘没後300年に当たり、現在地に新たに造営遷座された。義弘は道徳や学問の奨励・産業振興などを行い、今でも「太鼓踊りやくも合戦・加治木饅頭は義弘公に由来する」と言われるように広く敬愛され、毎年武道・郷土芸能などが奉納されている。
現在の精矛神社は、宮司であり、加治木島津家十三代当主でもある島津義秀氏によって守られている。
現在も武者行列イベント「妙円寺詣り」が行われる徳重神社。
島津義弘の木像がご神体となっている。
徳重神社本殿。
島津義弘が篤い信仰を寄せた、義弘の菩提寺でもある妙円寺(曹洞宗)。
島津義弘の位牌を安置している。
「妙円寺詣り」とは、もともとこの妙円寺のことを指す。
現在でも徳重神社にてにて毎年行われている「妙円寺詣り」のポスター。
武者行列イベントとしても定着している。
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