慶長3年(1598年)の秀吉死後、義弘は中立的な立場を貫いていたが、この頃の島津家内部では反豊臣的な兄・義久と親豊臣的な義弘の間で家臣団が分裂していた。また、義弘が大坂に留まっていたのに対し、義久は本国の薩摩にいたため、義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無く、大坂にあった少数の兵士しか動かせなかった。そんな中、関ヶ原の合戦に際し、義弘を慕う者の大勢が薩摩から自力で駆けつけ、義弘を感動させたというエピソードは有名だ。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの1500の軍勢を率いて家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし、元忠から家康が義弘に援軍要請したことを聞いていないと入城を拒否されたため、仕方なく西軍に与した(諸説有り:秀吉への降伏の際、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより、大隈一国と日向の一部が島津領として残った事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があった。関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが、義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は、江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって、創作されたものであるともいわれている)。
大大名の島津家の雄がわずか1500の寡兵しか率いていなかったことに石田三成ら西軍首脳は驚くとともに、義弘の存在を軽視した。このため、三成は美濃墨俣で東軍主力部隊が到来したことに慌てて撤退するとき、義弘の甥・島津豊久の部隊を危うく敵中に孤立させそうになったり、作戦会議の場で、義弘が献策した夜襲策を採用せず、関ヶ原での野戦に決定するなど、義弘が戦意を失うようなことが続き、義弘は関ヶ原の戦いには参加しながらも、戦場で兵を動かそうとはしなかった。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請した際も同じで、自陣を守るのみで戦況を見つめ続けた。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続く。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。その結果、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまう。
この時、義弘は後世まで語り継がれることになる驚くべき行動に打って出る。八方を東軍に囲まれた絶体絶命のピンチを前に、敵の大軍の中を中央突破することを決意したのだ。まもなく島津軍は先陣を甥の島津豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣形で敵中への突撃を開始した。
この時、島津軍は主君である義弘を守るため、捨て奸(すてがまり)と言われる何人かが留まって戦い敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦い方をした。結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが戦死し、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は奇跡ともいえる敵中突破に成功した。
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、最初の1500人のうちわずか数十名だったといわれる。義弘率いる島津軍の行動は、敵である東軍からも賞賛されたという。
帰国後、義弘は家康に恭順の意を示すため、桜島に蟄居。その後、井伊直政や本多正信による徳川家康への取り成しにより慶長7年(1602年)に赦免された。
最晩年に関ヶ原の合戦を想い詠んだという
島津義弘の辞世の句
関ヶ原合戦後、徳川方に恭意を示すため義弘は桜島に蟄居した。
桜島にある島津義弘蟄居跡。
島津義弘蟄居跡説明文。
関ヶ原合戦後蟄居した桜島(夕日に赤く燃える桜島山)。
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