薩摩武士は、古代から大和朝廷からも恐れられたいわゆる「薩摩隼人」の末裔で、鎌倉時代以降もその勇猛さと精強ぶりは広く知られている。戦国時代のいくつもの合戦や朝鮮征伐、関が原でもその力を証明していることからもそのことがうかがえる。
薩摩武士は、個人としても部隊としても、高い戦闘力を持っており、加えて島津家の有能な主君が領内を統治。戦時においては、勇猛果敢な島津の将達が兵を見事に率いたため、無類の強さを発揮することができた。それが常勝軍団・島津の強さの秘密であることは間違いない。
しかし、それだけではない。島津家は領有地拡大を図り、近隣地域を平定していく過程で、各地の地頭を服従させていったが、服従させるにあたり、地頭たちの本城・砦・山城を残らず破壊して反抗の芽を摘んでむのではなく、本城・砦・山城を残しておいて、要所を腹心の部下・有力な家臣を配置することによって勢力の拡大を図っていった。
九州制覇をめざした島津家は、三州統一にあたり、占領各地の砦・山城(山砦)を壊して本城のみを残し、そこに地頭たちを長期間駐屯させ、やがて地頭たちが駐屯地に本拠地を移して居を構えるようしたのだ。地頭配下の武士たちも任地の本城の周囲に居住して武家町が生まれることになった。これを「麓(ふもと)」と呼ぶ。
こうして室町幕府が滅亡したころには島津領を外敵から守り、領有地を維持拡大させる方策としての「外城制度」が実効を挙げ始め、島津貴久・義久の代には確立したといわれている。
また、江戸時代にも薩摩藩は鶴丸城を内城とし、藩内に113の外城を設け、御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。これは徳川幕府の「一国一城制」に対抗したものであるといわれている。
外城に勤める藩士の多くは普段の生活では農耕に携わり、定期的に軍事訓練を受けて、事が起きれば武士集落がそのまま軍となって戦う制度になっていて「人をもって守りと為す」の薩摩藩の精神が重なった屯田兵制度でもあった。
こういった「外城制度」を作り上げた島津家と、元来の屈強な薩摩武士たちが常勝軍団・島津の強さの秘密と言えるだろう。
現在も江戸時代当時の姿を残している武家屋敷
|
|